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  日本100名城・・・・・No.63 鳥取城
 城は、16世紀中頃、守護大名山名氏一族の争いの過程で誕生しました。はじめは因幡山名氏の守護所の出城でしたが、1573年(天正1)、山名豊国(やまなとよくに)は本拠地を湖山池東岸の天神山城より移転し、以後、鳥取城は因幡国(鳥取県東部)の拠点となりました。
やがて、毛利氏の傘下となり、天下統一を目指す織田信長の武将・羽柴(のちの豊臣)秀吉との間で壮絶な籠城戦が繰り広げられました。
 この頃の城の姿は、戦闘時は山城を利用し、通常の居住空間は山麓にありました。敵が登りやすい尾根には、尾根を切り盛りして平らな敷地を造り、その周囲に切岸(きりぎし)と呼ぶ急な斜面を造り防御としました。まさに城の字のごとく、"土から成る"城であり、城と言えばイメージされる石垣や天守はなかったと考えられています。
 天下統一を目指す織田信長は、1580・81年(天正8・9)の2度にわたり、羽柴(のちの豊臣)秀吉を総大将とし、毛利方の最前線であった鳥取城を攻めました。
2度目の城攻めの際、籠城した吉川経家(きっかわつねいえ)に対し、秀吉は、織田信長の指示に従い、圧倒的な兵力で包囲網を敷き、一切の補給路を断つ「兵糧攻め」を行いました。
これに耐えた鳥取城ですが、やがて兵糧も尽き果て場内は悲惨な状況に陥ったと言われています。ついに吉川経家は、城内で共に戦った部下や、城に避難した民衆の命と引き換えに自刃し、城は開城しました。 この戦いは、鳥取の「渇(かつ)え殺し」と呼ばれ、秀吉の天下統一の布石となる重要なものとなりました。 秀吉の本陣は太閤ヶ平と呼び、現在でも当時の土塁(どるい)や空堀(からぼり)がほぼ完全な形で残っています。

 兵糧攻めの後、新たに城主となったのは、豊臣秀吉の側近として活躍した宮部継潤(みやべけいじゅん)でした。彼は鳥取城に石垣や天守を築き(近世城郭)、城の姿を一新したとされます。息子の長房(ながふさ)は、1600年(慶長5)の関ヶ原合戦で西軍に与したため、鳥取城は、東軍の鹿野城(鳥取市鹿野町)主、亀井茲矩(かめいこれのり)や竹田城(兵庫県朝来市(あさごし))主、赤松広秀(あかまつひろひで)(斎村政広(さいむらまさひろ))などの攻撃を受け、徹底抗戦の末に開城しました。

※お城のパンフレットより引用

 
 概要  山城
 別名  久松城
 築年/廃年  天文年間(1532~1555)/明治以降
 築城主  山名誠通
 歴代城主  武田国信→高信→山名豊国~吉川経家→宮部継潤→長房→池田長吉→長幸→光政→光仲~輝知
 所在地  鳥取県鳥取市東町2
 最寄り駅  JR山陰本線 鳥取駅
 鳥取駅から100円循環バスくる梨「緑コース」で7分、「仁風閣・県立博物館」下車、徒歩5分
 最寄りIC  鳥取自動車道 鳥取IC 国道29号線・国道53号線経由
 駐車場  有(有料 無料)周辺駐車場
 駐車場はこちらをご覧ください
 (図は鳥取市ホームページより引用)
 休館日  毎週月曜日(ただし祝日の場合は開館) 祝日の翌日  (仁風格の休館日 城跡は随時見学可能   年末年始
 スタンプ設置場所  鳥取城跡内「仁風閣」内
 ウェブサイト  とっとり旅の生情報


  周辺の地図



  鳥取城の見どころその他情報
 2017年4月30日・2023年10月21日に登城しました。
山城もたくさんありますが、この鳥取城も本丸まで結構時間がかかりよい運動をしました。
本丸に着くと鳥取砂丘まで眺めることができ眺望は大変よかったです。
城の話とは関係ないですが、鳥取城・仁風閣でるのうに剣心の撮影があり、仁風閣内に写真の展示がありました。

 見どころ

 ◆本丸跡
 ◆天球丸巻石垣
 ◆西坂下御門
 ◆山下ノ丸最古の石垣
等が見所となります。

 イベント

毎年秋に鳥取三十二万石お城まつりが開催され、時代行列や堀端周辺で火縄銃鉄砲隊の演武などが行われるようです。

 観光スポット

仁風閣 明治40年に、旧藩主池田家の別邸として建てられたフレンチルネサンス様式の白亜の洋館。時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の宿舎として使用されました。国指定重要文化財。
※鳥取観光案内HPより引用
鳥取砂丘 鳥取砂丘は、鳥取県の東部にある鳥取市の日本海に広がっている海岸砂丘です。その一部は山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定され、国の天然記念物にも指定されています。
※鳥取県HPより引用 
砂の美術館 日本で唯一「砂」の作品を展示する美術館。砂を素材に、さまざまなテーマに沿った彫刻作品を展示しています。
※米子観光ナビHPより引用 
渡辺美術館 武具や民具、陶磁器、浮世絵、調度品など、世界中から集めた美術品が館内に展示されています。庶民が使っていた煙草盆やランプ、タンスなどから、昔の人々の遊び心がうかがえます。
※鳥取観光案内HPより引用
箕浦家武家門 もとはお堀端にあった鳥取藩士箕浦家の表門。昭和11年に鳥取師範学校の校門として移築された。箕浦家は番頭の家格で約2千石、鳥取藩上級武士屋敷の数少ない遺構である。
※鳥取県HPより引用
鳥取県立博物館 鳥取の自然と文化を網羅。久松公園の一角にあり、藩政資料など鳥取県に関する資料を展示しています。特にオオサンショウウオの飼育展示と砂丘に関する資料は見ごたえがあります。年数回特別展も開催されます。
※鳥取観光案内HPより引用

 書籍

 鳥取県立博物館で書籍を販売しています
 <書籍の内容について>
  大名 池田家のひろがり 信長・秀吉そして徳川の時代へ
   織田政権・豊臣政権・徳川政権と関わりがあった池田家がどう生きたかそして池田輝政以後の池田家の動きについて書状、絵図、写真を用いて説明されており家系図も記載されています。
 <書籍の内容について>
  尼子氏と戦国時代の鳥取
   戦国時代、尼子氏、毛利氏、織田氏といった戦国大名たちの対立や抗争の中に置かれ戦乱に見舞われた因幡と伯耆の歴史を、尼子氏を中心にして解説されています。そして応仁の乱から尼子氏滅亡まで経久、晴久、義久、勝久の四人の時代を中心に解説されています。
 <書籍の内容について>
  織田vs毛利 ―鳥取をめぐる攻防―
   これまで、鳥取城をめぐる戦いは、戦国時代を代表する合戦の一つとして多くの書物で取り上げられてきましたがその内容は飢えで苦しむ城内の様子や吉川経家の切腹といった特定の場面を局所的に描いたものが多くこの戦いが石見国から丹後半島まで山陰地方一帯を広範囲に巻き込んだスケールの大きな戦いであったという事実があまり知られていません。そのスケールの大きなところを、戦国時代の始まりから備中高松城の落城まで織田氏と毛利氏の関係を時代とともに解説されています。


 【注意】      【グルメ】  
 kuma  登城口に「クマ出没」注意という看板が設置されていましたが、山城に登る時は野生動物に注意しないといけません。  mosaebi  たまたま仁風閣に鳥取で有名な「すなば珈琲」さんが出張で店を開いておられました。写真の「もさホットサンド」は幻のもさえびを使用しており、濃厚な味で美味しかったです。鳥取訪問の際は一度ご賞味ください。

     
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