織田信長による築城以前の歴史は、あまりはっきりとわかっていませんが、中腹には間々観音という寺院があり、それを移築した跡に築城したと伝わっています。尾張一国を統一した織田家の統領信長は、仇敵であった今川義元を永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで破った3ヶ月後に、京への上洛の通過地点となる美濃の併合に向けて動いていました。「そのためには美濃を攻める拠点が必要だ」
清洲城が平城であったこと、南に位置し距離的に遠いことから、新しい本拠地として選ばれたのが広大な濃尾平野の中に位置する小高い小牧山でした。信長は、永禄6年(1563)6月、築城の名手丹羽長秀に命じて築城を開始しました。7月、清洲から移転するという噂は家中で広まり家臣は不服に思っていました。信長は、最初小牧山より北方の犬山市の二ノ宮に城を築き移転すると宣言していたからです。家臣達はその引っ越しに「難儀の仕合なりと上下迷惑大形」と反対しました。信長は頃あいを見計らい、改めて移転先を小牧山と表明。清洲より近くなったことを受け、反対が無くなり、小牧山への移転がスムーズにいったことが「信長公記」(首巻)には記されています。城は山全体(約21ヘクタール)を築城とし、縄張り研究では山頂の主郭地区、正面に当たる大手曲輪地区、本丸の西に当たる西曲輪地区、大手口西側に当たる西部帯曲輪地区、西裾にあたる西側谷地区、家臣団屋敷の東部帯曲輪地区の6つの地区で構成されていたと記されています。反時計回りに重臣の屋敷と考えられる方形の曲輪が取り囲んでいます。本丸へのアプローチは、南に設けられた大手口から上がり、大手道は直線的に中腹まで登っており、そこから折れて本丸に入る構造を取っています。この姿が後の安土城の姿に酷似していることから、安土城に先行する城の姿として信長の意識が表れているといわれています。しかし、直線的な道を中心とし左右に屋敷を振り分ける曲輪配分の作り方は、山岳寺院によく見られるスタイルであり、谷部の中心に道を据えた丘陵地形を活用した城造りの基本的な形であると考えられます。そういう意味においては、小牧山城も安土城もまだまだ中世・戦国色の強い縄張り構造であるといえるでしょう。
※小牧市観光協会HPより引用
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