創築は南北朝期で、初め桃井直常の拠点であったが、戦国期になると射水・婦負郡の守護代となった神保氏が強大化し、増山城はその神保氏の砺波方面に対する重要な支城となる。永正3年(1506)には越後の長尾能景が越中の守護畠山氏の要請により一向一揆を攻撃するため栴檀野まで進攻したが、増山城外で討死をとげている。(その能景を葬った塚と伝えられるものが、現在も城跡近くの頼成新に残っている)続いて、永禄3年(1560)能景の孫景虎(のちの上杉謙信)が越中へ進攻し、神保長職を攻めてこの城を一時奪っている。増山城はその後上杉氏(謙信・景勝)や佐々成政などの支城となるが、天正13年(1585)成政が秀吉に降伏すると、城は前田氏の持城となり、利家の家臣中川光重(宗半)が入城する。光重は慶長19年(1614)に没するが、この頃増山城も一国一城令などにより廃城になったとみられる。約250年にわたる長い歴史の中で、中川氏時代こそは戦火の及ぶこともない、最も平和な時期であったとみられる。麓の城下町もこの時期に繁栄を極めたことであろう。しかし廃城とともに城下町も衰退し、その跡は水田となり、一部は和田川ダム湖の下に没するに至った。
※「となみ中世の森」構想より引用
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