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お城の基礎知識 天守
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  概要
 日本の城の天守は、住宅として利用された天正期の安土城(織田氏)や大坂城(豊臣氏)などの例は別格として、江戸時代を通して居住空間として使用された例は少ない。
姫路城や熊本城などの江戸時代初期までに建てられた天守内には、井戸を伴う台所や便所、畳敷きの部屋など居住設備を設けていた例もあるが、城主は本丸や二ノ丸、三ノ丸などに建てられた御殿で政務や生活を行い、天守はおもに物置として利用されることが多かった。

  歴史
 初期の頃は物見櫓・司令塔・攻城戦の最終防御設備としての要素が強かったが、織田信長の近畿平定の頃からは遠方からでも見望できる華麗な権力を象徴する建造物という色彩が濃くなっていったものとも考えられている。西ヶ谷恭弘は、吉野ヶ里遺跡などにあった楼観や戦国時代の井楼(せいろう)などの仮設の高層建築に城郭の象徴となる建物の起源を求めている。
そのような象徴的に建てられたものを最初に“てんしゅ”と呼んだのは室町幕府第15代将軍足利義昭の御所であった室町第に建てられた天主であるというものである。
一方、三浦正幸は、天守の起源を井楼などに求めず、中世の城郭などに建てられた恒久的な高層で大型の礎石建物であるとし、それを“てんしゅ”と呼んだ建物には信長に関係があるとしている。
一般的に今日見られる本格的な5重以上の天守の最初のものとされているのは織田信長が天正7年(1579年)に建造した安土城(滋賀県近江八幡市安土町)の天主であるといわれる。
ただし、天守のような象徴的な建物は安土城以前にまったくなかったわけではなく、1469年前後の江戸城にあった太田道灌の静勝軒、摂津国人の伊丹氏の居城伊丹城(兵庫県伊丹市)、また松永久秀が永禄年間(1558年 - 1569年)に築いた大和多聞山城や信貴山城の四階櫓などが各地に建てられていた。
天守のような建物が初めて造られた城はわかっておらず、伊丹城、楽田城、多聞山城などが古文献などを根拠に天守の初見として挙げられているが、具体的な遺構などは不詳であり、いずれも天守の初見であるとの立証が難しくなっている。

そのように、建てられてきた城の象徴的な高層建築、いわゆる天守をさらに流行させたのは豊臣秀吉である。豊臣秀吉により大坂城・伏見城と相次いで豪華な天守が造営されると、それを手本に各地の大名が自身の城に高層の天守を造営させた。このように天守は、織田信長、豊臣秀吉の織豊政権下において発達した「織豊系城郭」に顕著に見られることから、織豊系城郭の特徴のひとつにあげられる。
また、この時代に活躍した天守造営の名手として中井大和守正清・岡部又右衛門などが挙げられる。豊臣政権が衰退し始めると徳川家康の下、徳川氏の名古屋城を始めに諸大名が姫路城などの豊臣大坂城を超える大規模で装飾的な天守を造営していった。しかし、3代家光の武家諸法度の発布以降は「天守」と付く高層の天守建築は原則として造られなくなる。

松本城高知城
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