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  その他の名城・・・・・No.KY001 清水山城
 清水山城は、16世紀末の文禄慶長の役(豊臣秀吉の挑戦出兵)に際し、本営である肥前・名古屋城(唐津市)と朝鮮半島の釜山を結ぶ輸送・連絡の中継点として、秀吉の命により国境の島・対馬に築かれた城です。海の玄関口である厳原港を見おろす清水山(標高208m)の尾根に沿って、山頂に一の丸、中腹に二ノ丸、東の段丘に三ノ丸が配され、それらが東西約500mの竪石垣(たていしがき)によってつながれています。朝鮮出兵のために築かれた清水山城は、織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく。織田信長・豊臣秀吉の時代の時代の城の型式)や日本の武将が朝鮮半島に築いた倭城に共通する要素も見られ、朝鮮半島からの撤退後にはすぐに廃城となったために、当時の遺構が改変されずに良好に残るなど歴史的価値が高く、国の史跡に指定されています。朝鮮出兵により島の命綱であった交易は断絶し、島民は塗炭の苦しみをなめることになりましたが、秀吉の没後、新たな天下人となった徳川家康の命を受けて対馬領主・宗義智(そうよしとし)は、日朝の関係修復に命がけで奔走し、外交使節団・朝鮮通信使の招聘に成功。やがて平和な江戸時代が到来します。清水山城は、戦国の世から太平の世に移り変わる、まさに時代の転換点に築かれた城なのです。

※お城のパンフレットより引用

 
 概要  山城
 別名  ―
 築年/廃年  天正19年(1591)/慶長4年(1599)
 築城主  豊臣秀吉
 歴代城主  豊臣氏
 所在地  長崎県対馬市厳原町西里
 最寄り駅  ―
 最寄りIC  ―
 駐車場  有(無料)観光情報館ふれあい処つしま、対馬博物館
 休館日  常時見学可能
 ウェブサイト  対馬観光物産協会


  周辺の地図



  清水山城の見どころその他情報
 金田城に登城したあと清水山城に向かいます。対馬博物館の駐車場に車を止めさせていただき、登城ですが駐車場の高まった所にツシマヤマネコに似た猫がこちらを見ていて、頑張って登れよと言ってるような感じがしましたけど、そんなはずないですよね。それから民家の横を通って狭い階段を登りますが、少し登ると三ノ丸まで110mという看板が現れます。左へは遊歩道・二ノ丸と書いてあり遊歩道と登城道が曲輪を挟むように通っているようです。三ノ丸に石垣があり様々な石積みがありましたね。算木済み、鏡積み、横矢枡形、などなど。ここからの見晴らしがよかったです。三ノ丸を後にして、進むと二ノ丸に到着です。ここには内枡形虎口があったり、織豊系城郭の特徴が見られます。そしから一の丸に向かいますが、到着してみると草木が茂っていて奥に進めなく先に行くのは断念しました。ただ、他の曲輪と違って扁平な石を積んでいました。これも特徴の一つでしょう。また、ここからの眺めも素晴らしかったですよ。時間も時間なので足早に下山しましたが途中危なそうな所はゆっくりとして無事下山できました。金田城と清水山城の二つの山城を続けて登るのも結構ハードでした。暑かったですが天気が良くてよかったです。

 見どころ

 ◆石垣
 ◆虎口
等が見所となります。

 観光スポット

 対馬カヤックス シーカヤック体験初めての方から経験者のかたまでいろいろなツアーメニューを用意して歓迎いたします。 穏やかな内海・浅茅湾と対馬海峡に面する外海。 二つのフィールドを併せ持つ対馬でシーカヤックの面白さを味わってください。
※アソビューHPより引用
韓国展望所 韓国まで49.5㎞の至近距離にある上対馬町は、天気のよい日には韓国釜山市の町並みが望める、まさに「国境の町」です。この展望所は、地理的にも歴史的にも深い関係にある韓国の古代建築様式を取り入れて建造されており、展望台についてはソウルのパゴダ公園にある多目的施設を、ゲートについては韓国国際ターミナル(釜山)の入口ゲートをそれぞれモデルにしています。
※ながさき旅ネットHPより引用 
対馬野生生物保護センター 対馬野生生物保護センターは、対馬の希少野生生物保護の拠点となる環境省・長崎県・対馬市の施設です。ツシマヤマネコをはじめとする野生生物の生態やその現状についての解説、野生生物保護への理解を深めて頂くための普及啓発活動や希少野生生物の保護事業などを実施しています。
※ながさき旅ネットHPより引用 
金田城  西暦660年、朝鮮三国のひとつ百済が唐・新羅の連合軍により滅亡しました。百済を救援する為に送られた倭国軍も、663年に朝鮮半島西岸の白村江で大敗。倭国は西日本各地に古代山城(朝鮮式山城)を築き、唐・新羅の侵攻に備えました。667年、浅茅湾南岸に突き出した「城山」(じょうやま)に「金田城」(かなたのき)が築かれ、東国から召集された防人たちが城山山頂から朝鮮半島を睨み続けたといいます。
※ながさき旅ネットHPより引用
 金石城 享禄元年(1528)の内乱で、「池の屋形」は炎上消失しました。脱出した宗将盛は国分寺に避難し、国分寺の東側は空いていたので、そこに新しい屋形を築きました。それが「金石屋形」です。寛文5年(1665)、義真は国分寺を日吉に移転し、金石屋形を拡張しました。城郭を整備し、大手門に櫓を建て、多門櫓を造ったのが同9年で、これより「金石城」あるいは「府城」ともいいますが、天守閣は造りませんでした。
※ながさき旅ネットHPより引用


     






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