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  日本100名城・・・・・No.25 甲府城
 甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、赤甲城などと呼ばれていました。天正10年(1582)甲斐国は戦国大名武田氏の滅亡後、織田信長の領国となりましたが本能寺の変の後は徳川家康の支配を受けました。
その後、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉は甲斐国に甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光康、浅野長政・幸長父子を順に配置して築城を命じ、浅野氏のころ(慶長年間)に完成しました。慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後、江戸時代には再び徳川の城となり、将軍の子弟が城主となりました。宝永元年(1704)、時の城主徳川綱豊(のちの6代将軍徳川家宣)が5代将軍徳川綱吉の養子になると綱吉の側用人柳沢吉保が城主となりました。
武田氏にゆかりのある柳沢氏は、子の吉里にいたるまで約20年間甲斐国をおさめました。この間それまで城主が在城することのなかった甲府城で、御殿の新築や石垣の改修、城下町の再整備が行われ、甲斐国は大いに発展しました。しかし、享保9年(1724)柳沢氏が大和郡山へ移封となると甲府城は幕末にいたるまで幕府直轄位置として甲府勤番制度のもと管理されました。
明治時代に入ると、甲府城は廃城となり、明治10年(1921)前後には建物はすべて取り壊され、次第に市街化され解体されていきました。
現在は本丸を中心とした場内の一部が城跡として良好な景観を保ち、県指定史跡甲府城跡(舞鶴公園)として保護されています。

※鶴舞公園パンフレットより引用

 
 概要  平山城
 別名  甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城
 築年/廃年  天正11年(1583)/明治以降
 築城主  徳川家康
 歴代城主  加藤光泰→浅野長政・幸長→平岩親吉~徳川綱豊→柳沢吉保→吉里
 所在地  山梨県甲府市丸の内
 最寄り駅  JR中央本線 甲府駅 徒歩約5分
 最寄りIC  中央自動車道 甲府昭和IC 県道、国道52号線経由
 駐車場  有(有料)甲府城周辺駐車場
 休館日  月曜日(祝日は開館)、祝日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日) (稲荷櫓の休館日 城跡は随時見学可能)
 スタンプ設置場所  舞鶴城公園管理事務所、甲府城稲荷櫓
 ウェブサイト  甲府市


  周辺の地図



  甲府城の見どころその他情報
 甲府城は駅からも近くアクセスも便利であり、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として開放されていますので一般の方の訪問も結構多いのではないでしょうか。舞鶴城公園内では、観光ボランティアガイド組織「甲府城御案内仕隊(こうふじょうごあんないつかまつりたい)」が甲府城を無料でご案内していますのでお訪問する際に案内をお願いしてみてはいかがでしょうか。(目印は、赤いウェアと小旗だそうです)
江戸時代には武具蔵(ぶぐくら)として使われていた城内の鬼門(北東)に位置する艮櫓(うしとらやぐら)(稲荷櫓)が平成16年にできるだけ当時の姿にして復元されています。櫓内を見学することができ、復元模型や石垣の解説などが展示されています。第20回城郭検定2級で「甲府城の楽屋曲輪御門前には、特殊な設備があったことを勤番の武士が書き残しているが、最近の発掘でそれらしき遺構が発掘された。その設備とは何か」という問題が出題されています。正解は温泉なのですが、私は鍛冶場と回答して間違いました。でも2級には合格しています。

 見どころ

 ◆稲荷櫓
 ◆鉄門
 ◆天守台
 ◆山の手門
 ◆鍛冶曲輪門
等となります。

 観光スポット

 武田氏館 国史跡である武田氏館跡は、永正16(1519)年に武田信虎が築いた武田氏の本拠で、一般には「躑躅が崎館」の呼び名で親しまれています。
※甲府市HPより引用
 武田神社宝物殿 重要文化財「吉岡一文字の太刀」や、信玄の軍扇など往時を偲ばれる品々を展示しています。
※甲州夢小路HPより引用 
山梨県立考古博物館 石器、縄文土器、博物館近くにある古墳の副葬品などが展示され、旧石器時代から現在に至るまでの先人たちの生活の跡をたどることができます。
※甲府市HPより引用 
 信玄公像 甲府駅前に設置されています。
サドヤワイナリー  サドヤ洋酒店を営んでいた6代目今井精三が1917年に創業。日本で初めてワイン専用ブドウ品種でワインを作ったワイナリーです。


     






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