佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532年から1552年)に千葉氏の一族である鹿島幹胤[かしまもとたね]が鹿島台に築いた中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610年)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年(1611年)から元和2年(1616年)までの間に築造されたといわれる平山城です。北に印旛沼、西と南に鹿島川・高崎川が流れる低地に西向きに突き出した、標高30m前後の台地先端に位置します。 佐倉城はこうした地勢を巧みに利用しており、さらに水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配し、城下町としました。 城内は、城の中心をなす本丸、二の丸、三の丸などと、家臣の屋敷割がなされた曲輪からなっていました。大手門(追手門)、三の門、二の門、一の門のあとを経て広い本丸の跡にでます。本丸と二の丸には屋形があり、佐倉藩の政治の中心的な機能を果たしていました。本丸にはそのほかの建造物として天守閣、銅櫓、角櫓などがありました。 以後、江戸を守る要衝の地として代々譜代大名が封ぜられています。幕府の要職につくと佐倉に移されるという傾向がありました。歴代城主のうち9人が老中となっており、その数は全国の藩で最多です。堀田家が歴代城主のうち半分以上の期間を占めました。 明治時代になりここに連隊が設置される際に解体されたため、城の建造物は、西出丸にある小規模な薬医門の他、一切残っていません。
※佐倉市HPより引用
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