箕輪城は榛名山東南麓の丘陵上を中心に、北東と南西の平地部を含んだ戦国時代の平山城(ひらやまじろ)です。東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約36ヘクタール(史跡面積=約19ヘクタール)におよぶ西上野(にしこうずけ)の中核的な城郭です。北西から南東方向にのびる尾根上に主要な曲輪(くるわ)を直線的に配置し、さらにこれを核にして多数の曲輪を線対称状に配置しています。これらの曲輪を区画しているのは、本丸周囲を巡る最大幅40メートル、深さ10メートルに代表されるような広大な堀です。西暦1500年前後に長野氏が築城し、その後4代にわたって長野氏の本拠でした。武田氏の西上野侵攻に際して、長野氏はこの箕輪城を本拠にして最後まで抵抗しました。永禄9年(1566)に武田信玄に落とされるとその後は、武田氏(1566~1582年)、織田氏(1582年)、北条氏(1582~1590年)、徳川氏(1590~1598年)と次々と主(あるじ)を変えましたが、その度に各大名の有力家臣が城主として配置されています。特に最後の城主井伊直政(いいなおまさ)は、徳川家康の家臣のなかでは最大石高の12万石で封じられています。その8年後の慶長3年(1598)、井伊直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城になりました。
※高崎市HPより引用
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