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  続日本100名城・・・・・No.104 九戸城
 九戸城には、東北地方の中世の城と近畿地方の近世の城の特色が見られます。地形を活かし曲線的な九戸城の中に直線的に改修された福岡城の部分があります。三方を川に囲まれた平山城で、約36万m2(指定地21万m2)、東京ドームの約10倍です。九戸城旧来の姿を留めるのは若狭舘・外舘等で、本丸は改築された福岡城であることが解っています。本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、この盛り土から焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土し、明らかに合戦後の整地です。堀沿いに土塁と石垣が巡り、土塁の高く広い部分は隅櫓跡です。東の追手門は、門と木橋があったところで、南にも二ノ丸と地続きの虎口があります。二ノ丸は、本丸の東と南を囲む形で築かれ、周囲に土塁、南に大手門、北には搦手(からめて)門があります。本丸の西側下は三ノ丸で今は市街地です。松ノ丸は、人工の堀で囲まれ、土塁の一部が残り、南東には武家屋敷の在府小路に面して大手門があります。九戸城は政実の4代前の光政が明応年間(1492~1501年)に築城したと言われ、その後九戸氏は着実に勢力を拡大します。天正8(1580)年三戸城主南部24代晴政が死去。晩年まで嫡男が無く、一族の田子信直(たっこのぶなお)を後継者に指名。しかし、男子(25代晴継=はるつぐ)誕生後は信直を嫌い世継ぎを撤回。晴政の死後、南部は跡目を巡り、信直支持派と晴継擁護の九戸一派とが対立。晴継も13才で謎の死を遂げ、混迷の中、信直が南部26代目を継ぎます。天正18年、秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始。小田原不参陣の諸氏を追放しますが仕置軍が去ると残党が蜂起し、奥州地域は不穏な状況でした。この機に乗じ政実は翌年3月に挙兵。信直は苦戦を強いられますが、9月1日には奥州再仕置軍が馬淵川流域に到着。6万騎を敵に籠城軍は5千人。しかし、苦戦と疲弊の上方軍は4日、九戸氏菩提寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告、政実はこれを呑み開門しますが、これは謀略で、悉く撫で斬りにされ九戸城はあえなく落城。政実らは、宮城県三迫で処刑、九戸神社と首洗いの池が残っています。これにより、秀吉の国内統一は完了し、名実ともに配下の大名となった信直に、和賀・稗貫・志和の三郡を加封、蒲生氏郷に命じ、九戸城を豊臣流の城に改修しました。信直はこの城を福岡城と改め南部の本拠地としました。その子重直が盛岡城に本拠を移し、その後、寛永13(1636)年に廃城となりました。

※二戸市HPより引用

 
 概要  平山城
 別名  福岡城、宮野城、白鳥城
 築年/廃年  明応年間(1492~1501)/寛永13年(1636)
 築城主  九戸光政
 歴代城主  九戸光政~政実→南部信直
 所在地  岩手県二戸市福岡字城の内
 最寄り駅  JR東北新幹線・いわて銀河鉄道二戸駅
JRバス(二戸病院・軽米病院行)または岩手県北バス(伊保内営業所行)に乗車。呑香稲荷神社前バス停下車、徒歩5分。
 最寄りIC  八戸自動車道一戸IC 国道4号線→県道24号線経由
 駐車場  有(無料) 
 休館日  九戸城ガイドハウス(4月上旬~11月30日)
 二戸市埋蔵文化財センター受付(毎週月曜日(祝日の場合は翌日休館 日) 祝日の翌日(土曜日・日曜日を除く)年末年始(12月29日~1月3  日))
 お城は随時見学可能
 スタンプ設置場所  九戸城ガイドハウス
 二戸市埋蔵文化財センター受付
 ウェブサイト  二戸市HP
 二戸市埋蔵文化財センターHP


  周辺の地図



  九戸城の見どころその他情報
 先に二戸市埋蔵文化財センターに寄ってスタンプとパンフレットをゲットしてから九戸城へ向うが九戸城ガイドハウス前の駐車場に着いたのが15時過ぎでガイドハウスは閉まっていました。外からトイレに入ろうとしたものの扉が開かずどうしようかと思っていると中からガイドハウスの方が出ていらっしゃってトイレを使わせていただきました。営業終了後にハウス内を掃除をされていたようで、親切に対応していただき中に置いてあった「九戸政実ゆかりの地を巡る」と「九戸政実物語」という冊子をいただきました。この方はおそらくガイドをされている方で、九戸城のことに詳しかったです。時間内であれば案内していただけたのに、残念でした。ガイドハウスのある所が三の丸でここから橋を渡って攻城です。橋を渡って右手に折れ進むと道路に出るのですが、ここを左に折れるとそこが深田堀となっていて、左手には二の丸の切り岸が見えます。左手に切り岸を見ながら進むと、九戸城の石碑が少し上に見えてきます。ここが大手門跡になります。大手門跡から二の丸に入りますが二の丸は結構広くて子供たちが遊んでいました。ひだりの本丸方向に進むと本丸前には堀が巡らされており、その堀の中に石垣が見えます。この石垣は天正19年(1591)の落城後に築かれたそうです。本丸南虎口から本丸に入ると、前方に本丸南東隅櫓跡が見えます。この本丸はほぼ100m四方の曲輪で結構広かったようです。次に本丸搦手から追手門跡を通り二の丸に入りさらに進むと二の丸の搦手に着き搦手の外に出るとそこが堀になっており左手方向に行くとガイドハウスへ行けるようですが、この時は工事中で通行はできませんでした。そして前方が外館(石澤館)ですがここも発掘調査中でロープが張ってあって入ることができないところちょと上らせてもらい曲輪と石碑の写真を撮らせてもらいました。時間の関係で若狭館には行かずに二の丸に戻り来たコースでガイドハウスまで戻ってきました。九戸城については続100名城に選ばれて初めて知ったのですが、いろんな歴史本を読んでいて東北に関するものであれば伊達政宗しか読んでおらず何かよい本はないかと調べると、安部龍太郎氏の書かれた「冬を待つ城」を見つけ読んでみました。この本に九戸政実の話が書かれておりこんな武将がいたのかと知った次第です。

 見どころ

 ◆石垣
 ◆堀
 ◆土塁
 ◆切岸
 ◆虎口
等が見所となります。

 観光スポット

 呑香稲荷神社 九戸城の中にある、格式高い神社。とんこういなりじんじゃ、と読みます。この珍しい名前はアイヌ語で「かがやける丘」を意味し、九戸城の松ノ丸跡にその社があります。天和2年(1682年)に神社が出来てから代々南部藩主に厚く信仰されてきた、二戸でも格式の高い神社です。九戸政実の霊が、ここに眠る。
※いわてのてっぺん「japanの郷 にのへ」HPより引用
古梅園の梅 九戸政実の庭園跡ともいわれ、樹齢400年高さ5mの梅の木がある。幹は根元で3つに別れ、花は6弁で淡い紅色をしており、4月中旬に開花する。
※岩手県観光協会HPより引用 
亀磨神社 その名は、亀麿。「座敷わらし」がいると言われているのが、ここ金田一温泉。そのいわれは、こうでした。南北朝時代に足利尊氏に追われこの地まで来た万里小路藤房には、幼い子が2人いて、長男を亀麿といいました。しかし亀麿は病に倒れ、6才で世を去ります。息を引き取る時亀麿はこう言いました。「末代まで家を守る」。それ以来亀麿が守り神となり、座敷わらしとなったのです。
※いわてのてっぺん「japanの郷 にのへ」HPより引用 
二戸市埋蔵文化財センター 九戸城を見る前に、ちょっと予習。二戸駅から九戸城跡までの道のりの、ちょうど中間地点にあるのが、二戸市埋蔵文化財センター。九戸城についての資料が豊富にあるので、九戸城を実際に目で見る前に、ここでちょっと予習をしてみるのもいいかも。
※いわてのてっぺん「japanの郷 にのへ」HPより引用
高曲原  美しい稜線を描く標高1078mの稲庭岳は、奥羽山系の一角をなし、二戸地方でもっとも高い山です。山頂までは、キャンプ場西の登山口から45分ほど。急斜面の少ない山道で、気軽にトレッキングを楽しむことができます。頂上の展望台からは360度のパノラマで、岩手山、北上山系、八甲田連峰、八戸の海まで一望のもと、澄みわたる空気を存分に感じることができます。
※いわてのてっぺん「japanの郷 にのへ」HPより引用

 耳より情報

ガイドハウスにはボランティアガイドがいらっしゃって、 無料でお城を案内してもらえます。
ボランティアガイド申込先:二戸市観光協会
※ガイド希望日の1週間前までにお申込みください

     






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